「人間は、生まれながらにして“法則性”を理解する能力がある」ということになると、今までの学習の仕方を考え直す必要が生まれてきます。
日本語の“法則性”を理解する能力を、すでに私たちは「内」に持って生まれてきていますから、わざわざ“法則性”を教わらなくても自然に日本語をしゃべれるようになりましたね。
教えてもらうのは、「外」に関する知識だけでよいということです。
そして、このことは、算数・数学についても当てはまります。
それが、前述した(親の式)y=ax+b と(子どもの式)y=3x+2 です。
さて、ここでみなさんに知っておいてほしいことがあります。
日本語の習得でもそうであったように、私たち人間は、生まれながらにして
「y=ax+b」という“法則性”を理解する能力を持って生まれてきているという点です。
ですから、「y=ax+b」という“法則性”については、教える必要はありません。
しかし、現在行われている教育は、この点を混同しています。
人間は、「空っぽ=0(ゼロ)」の状態で生まれてきているため、「y=ax+b」という“法則性”と「y=3x+2」という“具体的”な知識の両方を教えなければならないと、現在の教育では考えられています。
このように考えると、教育の仕方がどうしても、“教え込み”中心になってしまいます。
つまり、この考え方で推し進めていくと、「知識=空っぽ(ゼロ)」の状態で生まれてくる人間には、全てを教えなければ理解できないという教育観になってしまいますね。
これは、人間に対する理解の仕方が根本的に間違っているために、このようなことが起きてくるのだと思います。
しかしこれは、日本語でいえば、赤ちゃんに難しい日本語の文法の授業を行うことと同じです。
そんな無駄なことをしなくても、赤ちゃんは、日本語をスラスラと話すことができるのに、「教育=教え込み」と考えている人たちは、そのことに気づきません。
そのため、本人が体験を通して気づくべき「y=ax+b」という法則性を教えてしまうのです。
このような教育は必要ありません。
私たち人間は、生まれながらにして、“法則性”を理解する能力をすでに持って生まれてきます。
「すでに持っている」ということは、「すでに知っている」ということと同じです。
ですから、“法則性”については、教えるという意味の教育は必要ないのです。
“法則性”については、「すでに知っている」のですから、追体験としての経験をするだけで十分なのです。
実は、「でき太くんの算数」は、子どもたちが体験を通して学ぶことができるように作成されています。
このような考え方から、「でき太くんの算数」は、子どもが自分の「内」にある“法則性”を再発見するための、“追体験の学習材”として開発されました。
私たち人間は、もともと“法則性”を理解する能力を身につけて生まれてきています。
ですから、“法則性”については、人から教えてもらわなくても、理解できる能力を私たちは持っているのです。
このように考えると、学習の仕方そのものが、従来の「教育=教え込み」というスタイルとは異なってくるはずです。
それでは、どのようにして“法則性”を人から教わらないで、自分の力で学び取っていけばよいのでしょうか?
ここで登場するのが、「まねる」という学習法です。
私たちは、自分自身の中にすでに“法則性”を理解する能力を持っています。
ですから、今回の実験のように、具体的な問題の中にひそんでいる“法則性”を発見するつもりで学習すれば、本来、私たちの中にある“法則性”が浮かび上がってくるはずです。
従って、当クラブの「でき太くんの算数」で学習する時は、“法則性”を発見する「まねる」学習が大切になってきます。